2019年7月24日(水)、シンポジウム「文学の可能性 -震災・移動・記憶-」を大阪市立大学学術情報総合センターにて開催いたしました。

 第1部基調講演では、Linda M.Flores准教授(オックスフォード大学東洋学部長)が、こうの文代のマンガ『日の鳥』を取り上げ、3.11の記憶を風化から守る方法のひとつとしての文学の可能性についてお話しされました。『日の鳥』は、ある日突然いなくなった妻を探す雄鶏(日の鳥)の視点で東日本大震災後の東北各地を巡る本です。本書は見開きページに震災後の風景、その中にいる雄鶏、被災状況のデータ、雄鶏のその日の食事内容が書かれているスケッチ集となっています。Flores准教授は本書をドキュメンタリーマンガととらえ、映像とは異なり、読者が主体となって、さまざまな視点に立って読むことができると指摘します。このような表現方法を取ることによって、読者の思考に広がりを持たせることができ、3.11の風化を防ぐ「多方向的な記憶」を留めるための文学として大きな可能性を秘めていると評価しています。リンダ先生拡大

 第2部では、阪神淡路大震災を体験し、語り継ぎ活動を行ってきた詩人の玉川侑香さんによる「語り」と詩の朗読が披露されました。玉川さんは、震災という非日常の中でも日常を続けようとした自身の体験や、崩れた家の下敷きになった子供を地域の人たちで力を合わせて助けた経験について語り、聞き手の私たちは災害被災者の経験や思いに触れることができました。玉川さんは、「人々の記憶は人々自身の中だけでなく、家や町、村などに入っている」「家は人生の語り部であり、人生のひとつひとつの1ページが家の中の引き出しにしまわれている」と語ります。また、住み慣れた町が更地になってしまった状況を見て、頭の中が真っ白になってしまった方、家も家族もなくしても住み慣れた町に誇りを持ち、再び同じ場所で立ち直った方などを例に挙げ、「人の命はその人が生きてきた場所でコミュニティと共に生きている」と語りました。「復興は他人から押し付けられるのではなく、自分たちのコミュニティで自分たちの力でやり直していくのが大事」という言葉がとても印象的でした。

玉川さん拡大
 第3部では、まず奥野久美子准教授(大阪市立大学大学院 文学研究科 言語文化学専攻)が、過去から現在に至るまでの作家が震災を文学作品の中でどう扱ってきたかの紹介をされました。震災を取り込んだ文学を「震災文学」という特殊なカテゴリーに閉じこめては、かえってその享受が不自由になりかねない。震災を主題とする文学も、一素材として震災を取り込んだ文学も、近代日本文学として広く読まれてほしいとお話しされました。

 続いて堀まどか准教授(大阪市立大学大学院 文学研究科 文化構想学専攻)が、日本文学と鎮魂について、シベリア抑留体験を題材とした文学作品の表現や記憶の扱われ方からの考察をご報告されました。文学とは、民族や国家の集団全体にかかわる思考法や倫理観、そして歴史的記憶を作りだしてきた装置であり、読み手はそのことを踏まえた上で、個々の⼈間からの発信やその視点を意識して読み、受け取り、記憶を伝達していく必要があるということでした。

 最後に、東日本大震災後に被災地で出会った人々の体験の記録を続けている西岡英子特任准教授(大阪市立大学 女性研究者支援室 プログラムディレクター)が、被災者5人の写真や生の声による教訓や家族の死への思い、記憶の風化を防ぐために被災地で行われた地図作りのワークショップについて紹介されました。被災者と一口に言ってもその内実は多面的・多層的な具体的なひとりひとり異なる人間であり、その彼らが発信する震災の記憶を意味のあるものにしていくのは「聞き手」にかかっていると報告しました。

奥野先生拡大版 堀先生拡大版 
       奥野 久美子 准教授                           堀 まどか 准教授  

拡大版西岡さん
       西岡 英子 特任准教授 

 後のパネルディスカッションでは、先の報告者3名に、Robert Tierney教授(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校、東アジア言語文化学部長)と、土山和久教授(大阪教育大学 教育学部、男女共同参画担当 学長補佐)を加え、会場の聴衆も巻き込んで活発な意見交換がなされました。

 Tierney教授は、1923年の関東大震災朝鮮人虐殺事件と佐藤春夫の「魔鳥」を取り上げ、直接的に表現すると検閲に引っかかってしまうような内容も、文学として間接的に描くことで広く人々に発信することができるし、受け取った人は想像力をもって自分が経験したことがないことでも共感することができると指摘しました。堀准教授は自分の言葉で語ること、コミュニケーションを大切にすることの重要性を再認識したとコメントしました。また、奥野准教授は、一見検閲もなく表現の自由が保障されている現代でも、実際にはSNSでの炎上などを避けるために自分自身で表現を自己規制するような息苦しい状況があり、それを解いていかなければならないと思うと述べました。Flores准教授は、人は他者と同じ経験をするこ とはできないものの、文学を通じて共感することができると言います。そして、直接的な関係がなくとも、市民として人として誰もが等しく、震災について読み、耳を傾け、考え、語り継いでいく必要があり、そのための手段が文学であると主張されました。国語教育がご専門の土山学長補佐は、文学のリアリティは作者によって作られるものであり、それを読者が受け取り、感じてこそ成立するものであり、受け取り手である読者の側の問題もあると指摘します。玉川さんは「震災を語ることは人の命の問題であり、命が失われるのにどう向き合うかということ」と語りました。

 震災や戦争の被害にあうということは、自分の大切なものや人を失うことであり、どんな人でも文学作品を通じてそれらを体験した人の立場に立って考えることができます。文学の可能性は、人の生き方や命そのものについて、広く発信し、共感を呼び覚まし、これまで人が経験してきた厄災や犯してきた失敗を踏まえてどのように未来を紡いでいくのかを考えさせる手立てとなるところにあるということでした。

パネルディスカッション

 

 

 

 

 

 

 

 最後に池上知子副学長により、閉会の挨拶が行われました。池上副学長は、文学のパワーを感じたと述べられ、グローバル化の進展の反動によるナショナリズムの高まりで世界情勢の不安定化が進む中、特に私たちの様々な記憶を保存し、我々に共感を持って思い出させる文学の力は今後ますます重要性を高めると述べられました。

 会場からは、
「震災や戦争などに対して文学が果たせる役割や重要性に気付くことができた」
「『街の復興と心の復興は全く別のものである』という玉川さんの言葉が印象に残った」
「文学における想像力と理解力の重要性の話に感銘を受けた」
「喪失を共感していく装置としての文学、個人で抱えきれない記憶を集団コミュニティで共有していくことなどが心に残った」
などの声が聞かれ、シンポジウムは盛況のうちに幕を閉じました。